生き物は皆、生きる為に優れた機能を持っています。人も同じはずですね。
しかし、寿命の事になると、死ぬようにプログラムされているとまで言われる場合もあります。
筆者が考えた仮説は、そういった負の要素を徹底的に排除し、すべてが生きるようにできていると信じるところから始めたいと思います。
そうするとおのずと見えてくるのが、寿命とは生きる為のプログラムだという事です。
人は生まれて死を知ると、「永遠の命」が欲しいという事に気づきます。
「永遠の命」は普通に生きていても手に入らないでしょう。
外的要因の死もあるところにいて、今の様に時を待っていても永遠なんて来ないからです。
人は無限の時を一気に手に入れる事が定めであるかのようです。
人間は"無限"を頭では分かっているが、明らかに観測する事を苦手としています。
人間の五感では、"無限"のものを見たり、触ったりする事は出来ないはずです。
ここで著者は、"無限"と"有限"の間には隔たりというか、壁というか、そういった類のものがあると考えました。
そして、その隔たりを超えて「永遠の命」を手に入れるのでしょう。
つまり、「一生の命」から「永遠の命」になる時、それが「寿命」なのです。
この仮説からすれば、"生き物としての正しさ"通りです。
ここで、日本ではよく聞く話と一致している事に気付きますでしょうか。
"有限"と"無限"の隔たり、それが「三途の川」であるという事に。
人間の五感は"無限"を観測する事を苦手としている事は、前述通りです。
なので、「永遠の命」を得た人が何処に行くか分かりませんね。
この仮説では、簡単な数式で考えてみます。
まずは1番の方程式を見てみましょう。
「永遠の命」の為に一気に"無限の時"を手に入れ、そのような世界に行く速さを持っていたとすると、
行く場所は
(距離) = (速さ) × (無限の時) = (無限の彼方)
という事になる。まるで「天国に上がる魂」のようです。
次は今の計算は忘れて2番の方程式を見てみましょう。
"無限の時"を手に入れたところは同じ、距離は宇宙内部の近くでしかないとする。
そうすると、
(速さ) = (距離) ÷ (無限の時) = 0
という事になる。これは速度が0で「動けなくなった死体」を意味するようです。
この2つの式は、自分でも矛盾しているところは沢山あると思っています。
もし、この二つの事が割れて、両方が起こるとすると、魂は無限の彼方へ行き、
死体は動かなくなり残されるという、宗教的な話と一致しています。
「永遠の命」を手に入れるという、生物なら望んで当たり前な事と、「死でしかない寿命」の
どちらが生物学的に優れた考えかは容易にわかるはずです。
科学的な話と宗教的な話とがリンクしていて、非常に興味深い仮説となりました。
1つ心残りなのは、もっと厳密な無限大や0を使った数学・物理が出来たら良かったです。
課題も沢山ある仮説なので、これから先に役に立つところまで行くことを願っています。
最後までご覧いただき、ありがとうございました。